子供の頃、誕生日には何か欲しいモノか、何かしてほしいコトを一つ言っていい
コトになっていました。小学4年の時は「吉本新喜劇に行きたい!」と言って
なんば花月に連れて行ってもらいました。二人で出掛けられるのが嬉しかった。
小学校5年、6年は映画を観たあとに伊勢海老が食べたい!とリクエストした。
お父さんと二人で出掛ける時間は何が楽しいってわけではなくて、今でも
幸せな時間だったな~って思い出せるくらいうれしかった感情が残ってる。
コレを書きながら気づいたことがある!お父さんが誕生日にしてくれていたコト
私も友達の子供(3兄弟)の誕生日に二人だけでお出かけをするコトをしてあげてた!
してもらったコトをちゃんと誰かに返せていてよかった。
2022年9月、父が倒れて病院に運ばれた。
その日の夕方、母から電話があって「お父さん、末期の癌で余命1ヶ月らしい」と。
家の最寄り駅に着いた瞬間に電話があったから、無事に家まで帰れたような気がする。
コロナの真っ只中で面会は一切できず、食事もしなくなって1ヶ月会うことが叶わず
病院探しが難航して家族の意見も合わず、じつにイライラした。
1か月後やっと緩和ケア病棟に転院してからは毎日、会えるようになってドリップ
珈琲を淹れてあげたり、病室で蟹鍋や河豚鍋をしたりしながら2023年の3月まで
それはそれは濃厚な時間をお父さんと過ごすことができました。
途中、2022年11月の島根県で開催した「旅するcarbon 島根のほうへ」が
この時期にかかってしまい、人生のちょっとした試練でした(いや、かなり)。
春から準備していたイベントだったし、告知もフライヤーも全部できていた。
島根にはずっと一緒に頑張って準備してきた仲間もいた。
島根に行かないっという選択肢は頭の中にほぼなかった(記憶はあんまりない)。
出発の前夜、病院に顔を出して「明日から島根にいくから」というと
「あんまり無理すんなよ」と言葉が返ってきた。
頑張ってこい!とか、気をつけて行けよ!とか言いそうな父から出た言葉が、
そのイベント中の「お守り」みたいな言葉になった。
集中するために島根からはお父さんにも家族にも1度も電話をしなかった。
イベントが終わって島根を出る前に父に電話して「終わった!!今から
帰るから明日のお昼ご飯には行ける」と伝えた。心の中で生きててくれて
ありがとう!!!!!ってめちゃくちゃ思った。
私は人生レベルでの大きな決断をするときいっつも間違った方を選択する事が
多くて今回も間違ってるんやろな~っと思いながらだった。
だから、待っててくれたお父さんに心から感謝した。
(ほとんどの事は選択を間違っても、正解になるまであきらめないつもり)
翌年の3月、WBCが開幕して病室で試合を観てから家に帰る日が何日か
続き、日本が優勝するところを観れずに父はお空に還ってしまった。
遺品の中から洋画の映画パンフレットが沢山出てきて、裏には映画を観た
日付と「出来」のシャチハタが押されていて、そのパンフレットを観ていたら
色んな事を考えてしまって、妄想でいろんなところを旅してきて「映画館が
したい!」と思うようになった。今ココ、夢は映画館をつくるコト。
入口は父のコトが大きかったけど、自分にとっても音楽や映像やストーリーで
色んな刺激を映画から受けて生きてきたと思う。
例えば、「ゴースト」はリノベーションというモノを強烈に印象付けられた。
carbonの改装をするときにリアルにイメージできたのはこの映画だと思う。
どんな人にも違うアプローチで人生を変えるようなことも、当たり前の日常を
感じさせることもできる場所なのです(鑑賞あとのゴハンとか、帰り道とか、
語らいの時間とか)。
絶対できそうじゃないコトを成し遂げた人たちは、最初は絶対できないの
ところからスタートしてるはず!じゃ、一緒じゃーん!笑、、
お父さん!50を過ぎた娘に大きな夢を与え過ぎじゃありませんか?
ホントにできるとは思っていないよ、でも心の底から夢を楽しむ!ありがとー
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by carbon1999
| 2025-01-24 01:51
| 感謝のきもち。